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セレンディピティ

セレンディピティ

アーリアン

ヒッタイトの人々がメソポタミアの歴史の中に姿を現すのは、紀元前20世紀頃とされています。彼らはアナトリア半島(現在のトルコ共和国)一帯を領土にして王国を形成しましたが、元々その周辺に住んでいたわけではないようです。

 これは、彼らが使っていた楔形文字(ヒッタイト語)が、シュメール人やセム系民族の使った文法ではなく、インド=ヨーロッパ系──インド、イラン、スラヴ、ギリシア、ラテンなどの各民族──の文法に極めて近い事が決め手となりました。
 ちなみに、ヒッタイト語解読の足がかりとなったのは、「パンを食い、水を飲む」という意味の短文でした。この短文は『パン』の部分だけが既に解読済みのシュメール単語で書かれており、そこから「『パン』と来りゃあ、次は『食う』だろう。んで、パンを食ったらノドが渇くから『水を飲む』だったりして」……などと手前勝手な推測をしてみたところ、なんとその推測が大当たりで、そこからこの言語がインド=ヨーロッパ系の文法だと判明し、全てのヒッタイト語解読が進んでいった…などという凄い話が残っています。
 ただ、このヒッタイト語を解読したフロズニーという学者はその後、また大胆な決め打ちを仮説としてギリシアの古語の解読に挑みましたが今度は大失敗。晩節を汚したまま寂しく世を去ったそうであります。

 そんなヒッタイト人の故地について、詳しい事は分かっていません。しかし、インド=ヨーロッパ語を使う民族の発祥の地は現在の中央アジア~ロシア南部周辺ではないかとされており、遥か昔の先祖はそこに住んでいたのではないかと思われます。
 で、そうしてアナトリア半島に定住を決め込んだヒッタイト人ですが、民族全体による統一国家に成長するのは紀元前17世紀に入ってからでありました。彼らは、当時まだメソポタミアでは全く普及していなかった製鉄技術を持ち、その技術がもたらした鉄製武器は絶大な威力を誇りました。
 ヒッタイトは、国家誕生から間もなくして古代バビロニア王国を滅ぼすなど、その勢力を急激に高めました。ただ、何故かバビロニアを支配する事無く彼らは撤退してしまい、メソポタミア統一はなりませんでした。更にはその後、国内でクーデターが頻発したり、近隣に敵対勢力が現れるようになり、今度は急速に衰微。紀元前1400年頃には一時滅亡同然の状態に陥ります。
 が、シュピルリウマ1世という国王の時代(紀元前1370~36頃)にヒッタイトは息を吹き返します。彼は巧みな外交戦略を得意とし、後にお話するミタンニ王国との戦争でも、周辺国をまとめて同盟国にして戦いを有利に進めて勝利。ミタンニを事実上滅亡に追い込み、ヒッタイトはメソポタミア地方でも有数の強大国となります。
 そしてそれから後はエジプトとの関わりが深まります。かのラメス2世との間で争われたカデシュの戦いがありましたが、終戦後は平和外交がなされていたようであります。(ここでエジプト新王国時代と、この時代のメソポタミアがリンクする事を把握して下さい)

 …と、このように繁栄の時を謳歌していたヒッタイトですが、その最期は非常に呆気ないものでした。
 紀元前1200年頃、ギリシア地方ではドーリア人という北方民族の侵入があり、そのアオリを受けてギリシアから弾き出された諸民族(“海の民”と呼ばれる)がオリエント地方へ一気に来襲したのであります。
 突然の異民族の来襲に対し、エジプトではこれを何とか食い止めることに成功しましたが、アナトリア半島のヒッタイトは為す術無く、津波のような民族移動に飲み込まれてしまったのでありました。ヒッタイトは忽然とメソポタミアから姿を消し、その歴史もそこで途絶えるのです。

 
 次にミタンニ王国についてお話しましょう。
 ミタンニ王国を構成していたのは、主にフルリ(フリ)人という、セム系でもインド=ヨーロッパ系でもない系統不明の民族でありました。(参考書ではインド=ヨーロッパ系とされている場合がありますが、これは古い誤った学説であります)
 フルリ人は、ウル第3王朝の頃(紀元前2114~2004年)からメソポタミア各地に散らばっていましたが、その内のメソポタミア北部に住んでいた人々がまとまり、紀元前1500年頃にその地に建国されたものがミタンニ王国だと思われます。
 ミタンニ王国については、その首都・ワシュガニの遺跡が未だ発見されていないために、その姿は隣国ヒッタイトや、王室同士で姻戚関係のあった新王国エジプトの文献資料から類推するしかなく、まだ謎の部分が多く残されています。
 少ない史料の中から判明している歴史的事実を辿っていくと、彼らは戦車(馬車)を用いた戦法で紀元前1400年頃に全盛期を迎えたものの、その技術が他国に流出した事が命取りとなり、やがてヒッタイトによって滅亡に等しい大打撃を受けたという事が分かっています。

 
 そして最後に、バビロニアを中心としたメソポタミア南部を支配したカッシート人についてですが、これはミタンニ王国以上に詳しい事が判っていません。カッシート人が初めて文献に登場するのは、まだバビロニア王国が健在な紀元前1740年頃で、この時はバビロニアを攻撃するも、見事に撃退されています。
 あとは、後の時代に残されたバビロニアの王名表から年代を類推してみますと、ヒッタイトが古代バビロニア王国を滅ぼして撤退した直後、紀元前1595年から約440年もの間、カッシート人はバビロニア王国の支配者としてその名を歴史に刻んでいます。新王国時代のエジプトとの国交もあったようですが、どちらかというと受動的な立場を強いられていた節もあります。元々が粗野な民族だったせいか、その辺の駆け引きはどうも上手くなかったようであります。
 最終的に彼らをバビロニアから駆逐したのは、遥か昔、ウル第3王朝の滅亡の一因ともなったエラム人でした。そしてそのエラム人も間もなくしてメソポタミア南部の現地勢力に一掃され、ようやくバビロニアはメソポタミアの人々の手に戻ります。

     

「古事記」と「古代インド」・(3)・(56y)


 さて、インドの「クシャーナ王朝」、「マウリア王朝」、「チャンドラグプタ(月護王)」のインドの統一帝国は「アレキサンダー大王遠征」の影響が多大であったその結果である。
 「ピンドゥサーラ」は「チャンドラグプタの子供」で、「ナンダ王家出身」で、 「マウリア(孔雀)」を「トーテム」としていた。ニュジーランドの「マオリ族」は航海族であるらしいが、航海の道案内は「海鳥」と「星・月・太陽」である。「パータリプトラ」は「花の都」と呼ばれ、「パリ」も、「室町」も「ハナの御所」であった。なるほど、フランスは「仏国」ではある。
 影響と云えば「秦の始皇帝」はギリシャ人、「カウティルヤ」の「実利論」に通じる「法家」の思想を国家体制とし、「度量制度」も整えた。
 「アッショカ-(無憂)王」は「ピンドゥサーラ」の子で、「チャンドラグプタの孫」である。「孫」とは三代目(女・賣)である。子供より、孫が好きなのは何処のジジ、ババも一緒ではある。そして、「歴史上」ではやり手である。
 「ウパーサカ」は「在家信者」のことである。仏教典では「唯摩経」が他のどれよりもイイと日常生活にある私は思うのだが。「サンガ」は既に述べたが「仏教教団」である。「アッショカー王」は「カリンガ国」征服後に熱心な仏教信者となった。そして、「ギリシャ人の諸王にも仏教帰依を勧めた」らしいのだ。勧められたギリシャの人物は、「アンティオコス(シリア王)」、「プトレマイオス(エジプト王)」、「アンティゴノス(マケドニア王)」、「マガス(キレーネー王)」、「アレクサンドロス(コリント王)」であった。
 インド「スーラストラ」地方の「大守(ラージャン=王)」はギリシャ人の「トゥシャースパ」であった。「マハマートラ」とは「大守の下の懸令」である。
 とにかく「アッショカー王」は「法(ダルマ)の巡行」をした。「スシーマ」は「アッショカ王」の長兄であった。「アッショカ王の石柱」は有名で、三十柱あり、直径80センチ・長さ十二~十五メートルのものである。
 「ラージャン」は「王」の称号で、「マハーラージャ」は「大王・帝王」である。以下のカタカナの漢字変換はあなたに任せた。

 「ヴィジタ(征服地)」
 「ラジュカ(収税官)」
 「ユタ(管財官)」
 「プリーサ(高級官吏)」
 「マハーマータ(大官)」
 「アスティノモイ(都市管理官)」
 「アナネーヤ(債務の返済)」
 「ガーマ(ムラ)」
 「プラ(町)」
 「ナガラ(都市)」
 「タイラ(村落の長老)」
 「バーガ・バリ(分け前・持ち分)」=賦課租
 「クラ(男系血族集団)」
 「クラサンガ(血族集団)」
 「ダーサ(奴隷)」
 「プリタカ(隷僕)」

 「ミイラ」の漢字は「木乃伊」である。エジプト第十八代王朝(紀元前1478年滅亡)の「ミイラ」には「インド藍」と「インドのモスリン」が使用されていたらしい。
 「バクトリア王朝」の「メナンドロス(メナムドロス)」は仏教典に記されている「ミリンダ」である。「ミリン」とは「酢(ス=酉+乍=トリ+モッパラ)」のことで、「ダ」は「雫・唾・拿」ではないのか・・・オスシには酢を混ぜるのだが・・・「女何度路州(メナンドロス)=女難努賂州=女納戸賂主=女那ム奴賂州」であり、「北緯33度」の線である。この東西の線上に八丈島と九州の「ヨコシマ(横島=ム=邪)」と「阿蘇山頂」が並び、中国の「会稽山」が並ぶのだ。
 「イリ(伊犂)」は中国甘粛省の西部(敦煌の西方あたり)、紀元前二世紀の「烏孫(烏=太陽+孫=天孫)」だが、ここに「月氏族」が存在した。「匈奴」がこれを撃ち破って、この「イリ(伊犂)」地方に侵入したのである。そこの原住民スキタイ系の「サカ族」を南に追い、この「サカ族」がカシュミールに侵入。「月氏」の支配下にあったバクトリア地方の「トカラ族」の「五土侯」の一つの「クシャーナ(クシャーン)」家がギリシャ人の王国「バクトリア」を奪った。
 ギリシャ語で「イリアス(Ιλιαs)」とは「ιλαδα(イリアダ)」で、その叙事詩では鷲(ワシ・αετοs=アエトス)を黒き聖鳥と称えられた。「Ιλιον(イーリオン)」とは「トロイア」の別称である。「Ιουλιοs(ユリヨス)」とは「七月」である・・・「ιδιοs(イデイヨス)」とは「同じ」の意味だ。そして「ηλιοs(イリヨス)」とは「太陽」であった。「Elis」とは「古代ギリシャ西部地方」・・・「ιλη」とは「cavalry  company」で「騎兵軍団・騎兵中隊」である。
 押しだしの図式は、

 匈奴が中国北西部の月氏を討つ(紀元前二世紀後半)

 月氏、西部イリ地方へ移動(紀元前139年)
 ↓
 イリ地方のスキタイ・サカ族移動してガンダーラ・カシュミールに侵入
 ↓
 烏孫族がイリ地方に移動した月氏を討つ
 ↓
 月氏が西に移動してトカラ族等のバクトリアを征服支配
 ↓
 クシャーナ王朝

 である。
 「ヤヴァナ」とは「ギリシャ人」のことであるが、「バクトリア」の諸侯クシャーナ家の「クジュラ・カドフィセス」がクシャーナ王となって、「ヤヴァナ(ギリシャ)」、「バウラヴァ(パルティア)」の政権を滅ぼすのである。
 「ヘルマイオス」はインダス左岸の「ギリシャ政権の最後(紀元前25年)の王」であった。
 この時期はローマ皇帝「ネロ」が「パルティア」交戦。「九十九年」にはインド王がローマ皇帝に即位する「トラヤンヌス皇帝(九十八~117年)」に使節を派遣したらしい。
 「ヒッパルコス」はギリシャ人だが、45年頃モンスーンをの周期を発見し、航海術に影響を与えた。
 「ナンディ」は「牡牛」のことである。「ウシ」は「主=王」であるから、これを踏まえれば「難出葦(伊・移)」、「南出意」、「楠出委」が日本史の王朝の南北、東西対立の流れであるコトに気が付くだろう。
 「カニシュカ王(迦膩色迦王)」は「クシャーナ王朝の大王」で、即位七十八年(異説128、144年説)であるらしい。・・・カニシカ王は「蟹種化・可児主化(化似史化)」で、鹿児島のことだ。「猿蟹合戦」のオトギ話しにはそれなりの歴史的事実が比喩化されているのだ。
 首都は「プルシャプラ」で「佛楼沙国」と当時訪れた「法顕の旅行記」に、そして「布路沙布邏」と「玄奘の西域記」に記録されているらしい。
 「アギシュラ(アゲシラオス)」はギリシャ人であり、「カニシュカ王」の時代の寺院建築(インド・ペシャーワール付近)の監督であった。当然、「アギシュラ」は「亜祇(亜紀・安岐・空・秋)朱・」、「アゲシラオス」は「安芸史(始)羅将守」である。
 「カニュシュカ王」は「馬鳴」の説法を聞いた人物でもあった。この意味するところは、すなわち、天球円盤の「十二星座」、「二十八宿」、「東西南北」、「馬宮=午宮」の説であり、「午=南方」で、星座は、「朱鳥」の方角にあり、円周を「108」の目盛り(この目盛りを「足」と云う)を「二十七宿+牛宿」に区分配置した次の「南の宿」である。

 井宿(双子座・    象意=屋伏)・・・対になるモノ・大碓と小碓(倭武)
 鬼宿(双子座・獅子座・象意=瓶)・・・・鬼道の卑弥呼
 柳宿(獅子座・海蛇座・象意=蛇頭)・・・八俣大蛇
 星宿(海蛇座・    象意=牆・垣根)・柿・ついじ・さかい・重ねる・塀
 張宿(牡牛座・    象意=杵)・・・・張政・地名の「・杵(きね)・」
 翼宿(コップ座・   象意=跏趺)・・・足(脚・葦・股・俣・亦)家世
 軫宿(乙女座・鳥座・ 象意=牛)・・・・壱与・西・牛(女王)

 スナワチ、「朱鷺(トキの流れ)」で、日本史に関連させれば「朱鳥(持統天皇)=鴇(卑弥呼)=穐(安芸・毛利)=土岐(明智光秀)=辰=龍(竜田姫)=劉(劉仁軌・漢王朝の姓)=笠(木花之佐久夜姫・迩迩藝命)」である。
 「ボット=ブッダ=ポチ」は「仏」のことで、「裏の畑でポチが哭く」のは「花盛爺」のハナシである。
 「サールナート(鹿野苑)」は「佐有る名痕」で、「志賀・滋賀」と「シカ」の付く「半島地名」と建物である「鹿苑寺=金閣寺」である。
 「マトゥラー」は「クシャーナ王国」の首都だが、九州佐賀の「松浦」。
 「モッガリブッダ」はアショーカ王時代の仏教徒の「第三回の結集(サンギーティ)」であった。「ヴァスミトラ(世友)」はアショーカ王時代の仏教徒の「第四回の結集(サンギーティ)」の主宰者であった。そして、「発智論(二十巻)」の「注釈書(大毘娑沙論)=マハーヴィバーシャ(二百巻)」を作成したのである。
 「上座部系統(小乗仏教)の説」は「説一切有部」と言われ、「菩薩が菩提樹の下で悟りをひらいても、前世の煩悩によって生まれでたモノである業をそのまま受け継いだ存在」であるとした。
 スナワチ、

  「煩悩→善業悪業→業の結果として→苦
   ↓
 =実体存在としての過去→現在→未来→十二因縁→輪廻転生→煩悩を断ち切って
                                          ↓
                →解脱→修行を積んで阿羅漢(アラハント・聖者)になる」

 と言う説である。
   ↑
  小乗

 「発智論(ジュニャーナ・プラスターナ)」=「カターヤニープトラ(迦旃延子)」の作。この「発智論(ジュニャーナ・プラスターナ)」の解釈の相違

  大乗
   ↓
 「大衆部系統(大乗仏教)の説」=菩薩が幾度も生まれ変わるその姿は、既に煩悩をすべて乗り越えた仏陀が人々を救うことを願って、かりにその姿をとって生まれでたモノ(願生化身)。
 「実体存在ではない現在的思考→一刹那→一切空→性得仏性心→全てのモノが仏陀になる」

 と言う説である。

 マァ、どんな人でも「救われる」と言う「親鸞」が最高では有るな・・・煎じ詰めれば「善人も悪人もいない」のだ、ヨネッツ。「親鸞の宗教に命の善悪のレベルは無い」のである。だが、「俗世間」では「ルール違反者」は「悪人」である。英語はチャンと「OUT LOW=悪人」と言っている。
 「ミリンダパンハ(ミリンダの問い・那先比丘経)」はギリシャ・バクトリア時代のギリシャ王である「メナンドロス(ミリンダ)」と仏教の比丘「ナーガセーナ(那先)」の哲学問答である。
 「ナンディ(牡牛)」は「シヴァ神」の象徴で、「リンガム(男根像)」の形を崇拝した。
 「モーリエス(マウリア)」=木造家屋に住むインド人の意味。「毛利」の姓はコレだろう。
 「サンダルを履いた仏」とはガンダーラ美術のギリシャ的象徴だが、いわゆる「靴・沓」である。「くつ」は「足に履くモノ」だが「藤の木古墳」からは「金ぴか・粒頭」の「大きいくつ」が出てきた。「くつ」には「あし」と関連して特別な意味があるのだ。漢和事典には「靴(カ・クワ・くつ・革靴)」で「変化する意味」とある。靴の漢字分解は「革命」の「革=廿+中+十」と「化=人+牝(雌・女)」ではある。「鞜・沓(トウ・タフ・ドウ・ドフ)」で、中国漢字の意味は「流暢にしゃべる・水があふれる・重なる・多い・冒す・犯す・むさぼる」であり、「国語」が「くつ」なのだ。何故、「沓」は国語になってしまったのか?この漢字の「音」と「字形」にこそ謎解きの鍵がある。「鞜・沓=水(壬・癸)+日(ヒ・いわく)」の同音漢字を総て「トウ(問う)・タフ(他譜)・ドウ(同)・ドフ(土譜)」のだ。「沓」の逆字は「泉」である。「和泉、出水、出石、出雲、伊豆・伊豆美」に関する日本史のハナシの示唆である。そして「履(リ・はく・ふむ・ふみ)」も「くつ」なのだ。「履歴書」は知ってのとおりだが、「履帝位」は帝王の位に就くことである。しかも「領土」の意味なのだ。「屡(ク・はく・くつ)」は「麻で出来たクツ」である。ワラジの類である。
 「大足・大股・大脚・大髄・長髄・大脛・大迹」が「帝王」の意味で、「古事記」の「亦の名」が「王」であることがわかるであろう。「沙本毘賣、『亦の名』は佐波遅比賣」で、女王としての名前が「佐波遅比賣命」なのである。そして、母親が神の足跡を踏んで生まれたのが「姫」の姓を有する「軒轅氏=黄帝」であった。「ウィリアム・アダムス=三浦按(案)針」が立ち寄ったであろうセイロン島の神の足跡と言われる大岩の窪地の「アナ」は、「アダムス・フット」と言われている聖跡の地である。「あなどり」がイケナイのは「帝位簒奪」はダメダと言うことである。そして、「くつ」は「洞窟」であり、「天照大御神」がカクレタ「イワヤド」で、「卑弥呼」の死後、埋葬された「大塚」でもある。考古学者の気持ちはワカルが「墓暴き」は「よくない(κακο=カコス)」・・・ネっ。マァ、「タイムカプセル」としての人類の遺産の「恩恵」は大だが・・・起源(αρχη=アルヒ=或る日)を知るとは・・・「エナ(ενα)=重名=恵那」は「岐阜の恵那峡」で「一番」と言うことか・・・「δεκατοs τριτοs=デカトス トリトス」は十三番目だが・・・

 ギリシャ天文学の影響

 「スールヤ・シッダーンタ」は「太陽神・スールヤ」が「ローマカ(ローマあるいアレクサンドリア)」の町でこの書の内容を啓示したモノといわれているらしい。この書物は104年の「プトレマイオス」の天文学に一致するらしいのだ。「ローマ・シッダーン」は「太陽年を365日5時間55分12秒」のことであり、また「アーリアバティーヤ」は「グプタ時代」の天文書であるらしい。
 さて、南インドの方ではどうか。
 南インドには「アーンドラ王朝」が存在し、ここは「タミール地方」と呼ばれ「タミール語族」が存在する。「他見入る語族」である。・・・日本語の「たみ(民)」じゃないのか、これは。「タミル国」の貨幣だが、「アーンドラ銀貨」には船の図が描かれている。国内では「鉛貨(エンカ)」を流通させたらしい。まさか「艶歌・怨歌・猿歌」の歌舞伎、猿楽じゃぁないだろうが・・・。
 紀元前二十七年初代ローマ皇帝に「アウグスツゥス」が就き、エジプトを支配下におき、地中海の制海権を握り、さらには南インドとの貿易を船で行った。しかも南インドの「チェラー(ケーララ)王国」に軍隊を派遣し「駐留」させたのである。ちょっと前の「植民地・租界政策」である。紀元前二十年には「バーンドヤ」国王は「アウグスツゥス」に使節を送り、すべての「ローマ市民」に国土を自由に通行することを許しているらしいのだ。武力をチラつかせて自国の利権を行使するのは何時の時代も同じであるらしい。


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